薩長同盟を成功に導いた、もう一人の存在。坂本龍馬の同志、中岡慎太郎

坂本龍馬の大業の裏には同志でもある、中岡慎太郎の功労がありました。長州のため、尽力した中岡慎太郎について紹介します。

幼少期

中岡慎太郎は1838年、現在の高知県、土佐安芸(あき)郡柏木村で生まれます。庄屋でも帯刀を許可された家柄で、非常に厳しい父親から教育を受けました。

肝が据わった少年で、学問にも優れ、14歳で塾講師を務めるほどでした。17歳には武市瑞山で剣術修行に励みます。

土佐勤王党の加名

剣術のみならず、政治思想も教えた武市瑞山(たけちすいざん)ですが、彼を筆頭に土佐勤王党が結成されます。1861年中岡はこの土佐勤王党に加名します。

50人組結成と板垣退助との出会い

1858年には井伊直弼による、安政の大獄により、反対精力の一橋派を弾圧します。隠居の身となった、元藩主の山内容堂(やまのうちようどう)は
大政奉還の要人でした。彼の警護にあたり、土佐勤王党では「50人組」とよばれたグループの結成、中岡達は江戸へ向かいます。道中、京都で武力倒幕派の板垣退助と出会い意志を通わせます。

土佐勤王党の静粛、長州藩へ亡命

1860年、桜田門外の変で井伊直弼の暗殺が発生。土佐勤王党は倒幕主張と対立した山内容堂の側近、吉田東洋を殺害しました。土佐に戻った山内容堂は、1863年に土佐勤王党を粛清することを提唱。

板垣との再会

身の危険を感じた中岡慎太郎は、土佐を出て脱藩し、長州藩へと亡命します。中岡は失脚後の板垣と再開。

そこで板垣は中岡に「京都で私を殺すつもりだったか」と尋ね、一旦は否定したものの、「中岡ともあろう男がはぐらかすとは、いかがなものか」と迫られ、「その通りで、状況によってはあなたを斬るつもりでした」と腹を明かす。

身分の上だった板垣に、大胆にも告げた中岡は、板垣に最後まで信頼される間柄となりました。

長州藩へ亡命後:薩長同盟への決意

尊攘派公家の中心的人物の三条実美とも会い、その頃、土佐勤王党は筆頭者の武市半平太を含め全滅。行き場を失った中岡は三条に迎えられました。

池田屋事件により、長州藩が襲われ、1862年には禁門の変がおこり、過激派の長州藩に中岡も参加した。最終的には敗北してしまい、幕府に服従。

内情調査に派遣された中岡は西郷吉之助(後の西郷隆盛)と出会い、「日本改革のため、薩摩と長州が力を合わせるべきだ」と薩長同盟へむけ、坂本龍馬と奔走します。

薩長同盟から第二次長州征伐

薩長同盟のため、中岡慎太郎は下関ー太宰府ー京都の3間を駆け巡りました。同盟一歩前の下関会談で当日欠席をした西郷。彼を龍馬と二人で必死に説得し、ついに1863年、薩長同盟が結ばれます。薩長同盟は何度も仲介に尽力した中岡慎太郎なしではうまく行きませんでした。

第二次長州征伐

1866年 長州軍と幕府軍で争いが勃発、中岡も長州軍へ加担。絶望的な15万人の群対1万人以下ほどの長州軍。激戦の末、なんと勝利を収めます。

 政府軍の敗因には指揮の低さ・時代を感じる古い武器・将軍の徳川家茂が脚気で亡くなるがありました。この結果により、幕府の信用・威信はなくなり、大政奉還、幕府は幕を閉じます。

中岡慎太郎の最期

大勝利を収めた、翌年1867年、中岡慎太郎は岩倉具視を訪れ、親交を深め、手を組んだ。

同年11月、近江事件が発生。中岡と坂本の会合中に刺客に襲われ、襲撃直後、龍馬は絶命。中岡も全身に致命傷を受けました。2日間は生き延びた中岡は遺言を残します。

「我が為に岩倉卿に告げて欲しい。王政復古のこと、一にかかって卿の御力に依るのみである」
「速やかに討幕の挙を決行されよ。後れを取れば、却って敵のために逆襲せられるであろう。必ず同志の奮起を望む」

二人の死を嘆いた、岩倉は中岡の意志を継ぐべく、12月9日朝廷に参内し、王政復古が実行。矢継ぎ早に王政復古の大号令により、江戸幕府から明治幕府へ移行します。

彼の最期は、明治を自分の目で見ることはできませんでした。坂本龍馬ほどの知名度はありませんが薩長同盟の締結の道・新政府の樹立のきっかけを作った人物、彼の銅像は、高知県で日本の未来を見守っています。